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今月のみ教え(アーカイブ25-06)

2025年6月


 どうでもおかげを受けねばならぬのに、「これでもおかげが受けられるであろうか。おかげになるであろうか」と思うようでは、おかげになりにくい。「どうでもおかげをおやりなさってくだされい。どうでもおかげをいただきますから。おかげを受けずにおられますものか」と、その身が心から打ち込んだ一心にならねばならぬ。


  私たち人間には先が見えません。「一寸先が闇」という言葉があります。普段そのようなことなど全く意識もしませんが、何か事に出合うと実感する言葉です。このように先を見通せない私たちは、「こうなったらどうしよう」「こうならなかったらどうしよう」といった心配や不安を抱えざるを得ないのです。もちろん、だからこそ、願いとする物事をできるだけ確実に実現するための努力や工夫も生まれ、それによって不安を打ち消すこともできないわけではありません。しかし、自らの努力や工夫の及ばない事柄に対しては、願うこと、祈ること、成り行きに身を任すことしかできません。私たちは何事においても「どうでもこうでもおかげを受けねばならない」存在なのです。そのことに気づけば私たちは信心せざるを得ないわけなのですが、ここにも「これでもおかげが受けられるであろうか。おかげになるであろうか」という心配や不安がついてきます。でも、良く考えてみると、神様に願っていながら心配するというのは、「おかげをやろう」という神様を信用信頼していないということになります。神様ではなく不安や心配に心が向かっています。心を神様に向け、神様と一つ心になり、何事においてもそれがどんなおかげになるのかを楽しみとするような私たちになりたいものです。(教会長)