教会長お話
「ご大祭に向けてどのように向かわせて頂くか」について、手掛かりになるようなお話をさせて頂き、そのあと、皆様に具体的に中身を膨らませて頂くと有難い。
先日ある方がお参りになり、「先生、今日はチューニングに来ました」と仰る。チューニングという言葉が私にとって新鮮に聞こえた。日々の生活の中でついつい自分の考えや思考が神様からズレていることがあるが、教会参拝によって神様に自分を向け直す、そのことをその方はチューニングという言葉を使われたのだと思わせて頂いた。
参拝について昔のことばで表現することは出来るが、今のことばでご祭典をお迎えする気持ちを表現するとどうなるか、考えてみた。例えば、メンテナンスという言葉がある。あるいはオーバーホールということばもある。
神様の氏子である私たちが、神様から賜ったいのち、そのまま生きていけばいいが、同時に神様は私たちに育って欲しいという願いを込めて、自由な心を与えて下さっている。その自由な心が、ややもすると神様抜きの心になってしまっているところがある。
そういうふうな自分を修正していく必要がある。月々の月例祭・月例霊祭をお仕えしているが、日頃の参拝と違って、天地金乃神様のお祭りに参拝することによって、天地金乃神様の氏子である私自身が、天地金乃神様の氏子になるように定期的なメンテナンスをしているようなところがある。
その例えでいうと、年一回の天地金乃神様のご大祭は、全面的に直す「オーバーホール」とも言える。自分のあらゆるところが天地金乃神様の氏子になっているか、これは、ご祭典というものを通して、私自身をもう一度作り直し、生まれ直す。神様の思し召しのままに直して頂く。そういうふうなことかなと思ったことがある。
日頃の参拝と月例祭と大祭がどう違うのか、イメージする手掛かりとしては、日頃の参拝=チューニング、月例祭=メンテナンス、大祭=オーバーホールと例えることが出来るのかなと思う。
春のご大祭は天地金乃神様のご大祭。天地金乃神様と私の中で、神様の氏子としてふさわしいあり方に作り直していくということ、そのために必要なこととして、心の向け方、思いの向け方があるのではと思う。
私自身がご大祭を迎える時、どうであったかなと振り返ると、ご大祭を全身全霊でわくわくしてお迎えしていたのは、小学生の頃であった。5月を迎えご大祭が近づくと、クリスマスやお正月を迎えるように待ち遠しくて、ご大祭に向けていろいろ準備をさせて頂く、そのことが楽しみで仕方がなかった。一言でいうと、わくわくしてご大祭を迎える、そういう心があった。その当時のわくわく感に対して、今でも憧れというか、こういう気持ちで迎えることが出来ることは、何と素晴らしいことかと思う。
わくわく感が前提となった上で、この天地金乃神様のご大祭の意味、内容について、オーバーホールする、メンテナンスするとしたら、自分をどのように点検して、不具合を見つけて、直していくかになっていくが、そのためには、神様が私のことをどう思って下さっているのか、何ゆえに日々さまざまなものを整えて下さっているのか、その原点を確認する必要がある。日々天地金乃神様からおかげを頂いて、いのちを頂いて今の私がある。そのことが有難くて、畏れ多くて、勿体ないのだと、日々おかげを頂いていることの我が身の有難さ、嬉しさ、そういうものが大切だと思う。
ご大祭を迎えるにあたって、そういう心を自分の中に作り上げていくというか、ご大祭を通してそういう思いにならせて頂くことが大切だなと思わせて頂いている。
具体的にどうするかということについては、一人ひとり内容が違ってくる。そういう意味で具体的な内容には踏み込んでいないが、もう一度整理すると、
○天地金乃神様の大祭は、日頃の参拝、月例祭とどう違ってくるか、大祭という大きなお祭りの意義
○ご大祭を迎えることそのものがわくわくして、楽しみで仕方がないというような、そういう思いで迎えさせて頂く。それを大きな器として考えていくことが大切。
○その中身として、天地金乃神様のご大祭であれば、神様から日々おかげを頂いて、生かされて生きていることの有難さ、勿体なさ、何と神様はこのような私にも日々いのちを授け、願いを掛けて下さっているなということを、全身全霊で分からせて頂くということ
が大切であることをお話しさせて頂いた。
具体的にそれぞれがどう取り組ませて頂くかについて、皆んなで今の中身を膨らませて行っていただければ有難い。